人に好かれるセリフ
「それはやっていないので」⇒「別のやり方でもいいでしょうか?」
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このページはVoicy「澤円の深夜の福音ラジオ」1475回を、文字起こし・編集したものです。
【対立するメカニズム】
今日はですね、武蔵野大学の新入生のオリエンテーションに参加してきたんですけども。
新入生の人達っていうのは、一年間寮生活をするんですね。
一年生の間は、皆、寮に住んでもらって、そこで共同生活をするということになってるんですね。
これは、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の一つ、ウリになってるんですけれども。
そうするとですね、やっぱり、いろんなところから集まった若者達が、一ヶ所に集まって生活をすると、当然のことながら、全てが平和に事が運ぶわけじゃないわけですよね。
今の時点で、何か問題が起きているかどうかということは知らないですけど。
少なくとも、パッと見なんか、平和に進んでるんじゃないかという風に思うんですが。
まあ、人が集まるとですね、どうしても意見が合わないっていうことが起きるわけですね。
人はまあ、それぞれ価値観違いますし、考え方も違うので。
意見が完全に一致するということの方が、むしろ奇跡に近いって考えても良いような気がするんですね。
意見っていうのは、合わないことがある意味前提で。
意見がピッタリ合った時には、喜べば良いし、合わなかった時には、「うまくやる」というのが必要となってくるわけですね。
この「うまくやる」というのは、自分を抑えつけて意見を曲げて、相手に合わせるという意味ではないです。
これは、意見が合わないということを、当たり前のこととして受け入れるだけの話なんですね。
特に、意見が合わない・賛同できないっていうことが、往々にしてあるんじゃないかなと思います。
「何か、とんでもない事象が起きたとして、それに対して、私はこう思う」っていうことに対して、「自分は、そう思わないな」というのは、まあある意味賛同できていない状態なんですけれども。
その時にですね、「私は、こう思わない」というのを、”あなたは、間違っている”という風に矢印向けちゃう人って、一定数いるんですよね。
これ、僕にも、そういう風に矢印向ける人って、少なからずいて。
これ、必ずしも攻撃的な気分だったり、悪意があったりっていうのじゃなくって。
下手すると、親切心とかで言ってくる人、いるんですよね。
考え方が違うだけなのに、なぜか、”僕の方が、間違っている”という表現をして。
”あなたの為を思って、言うけどね…”かなんか言ってくる人、いるんですけど。
まあ、「かなり、ウザイな…」と、思っちゃうわけですね。
「賛同できないんだったら、賛同できないで良いじゃん」って思うんですけれども。
”あなたは間違ってるから、正しいところに連れて行ってあげますね”なんていう風に言われてアプローチされてもですね、「余計なお世話だ」って思っちゃうんですけどね。
なので、賛同できないということは、もうこれ自然なことなんだから、もうそれで良いじゃないって。
そこで、ストップしてくれれば良いんですね。
それを無理矢理、”こっちが正しいから、こっちに行きなさい!”な~んていう風に言われるのは、ちょっと違うかな~って思うんですよね。
そして、賛同できないということと、対立をするっていうこと、全く別問題なんですよね。
賛同できないっていうことに対して、「受け入れる」という気持ちを持てば、わざわざ対立をするということは必要ないんですよね。
あるものに対して、違う意見を持っているということを、自分なりに意識して。
「このことについては、あの人と話をすると、意見がどうしてもぶつかってしまうかもしれないな」と思ったら、「あ、あなたはそう思うんですね。私はこう思って、違うので、それぞれの考えをお互い尊重しましょうね」っていう風にしておけば良いし。
そのことについての議論っていうのは、しない。
もしくは、対立をする…
つまり、「相手が間違っていて、私が正しい」という立場ではなく、お互いそれぞれが自分の正しいと思っているものを持っているっていう、この状況を認識して会話をする。
必要に応じて、議論をするというのが、必要なことなのかなと思います。
これですね、世の中を「正しい」・「正しくない」っていう二つの考え方で分けてしまうから、いろいろと問題が大きくなるわけですよね。
そして、これはいろんな人が指摘することではあるんですけれども。
日本の教育っていうのは、基本的にある正解があり、その正解がある前提でものを考えるトレーニングというところに、ちょっと特化し過ぎてるところがあるんですよね。
そうすることで、実際にはですね、平均的学力を上げるっていう意味で言うと、効果はあるんですね。
ですので、これは完全に間違っているわけではないんですけれども。
それこそ、「正しい」・「間違い」だったら、一つのアプローチとして、これはアリなんですけれども。
結果として、正解がある前提でないと、ものを考えられなくなるので。
「正解以外は、間違い」という風に、認識をしやすくなっちゃうっていう、そういう傾向があるわけですね。
もちろん、そういう風にならない人もいるんですけれども、「そういう人にならない」っていうのには、かなりの労力が必要になってくるわけですね。
楽なのは、用意されている正解に乗っかって、できる限り「考える」ということを省力化しちゃうっていうのが、これがすごい簡単なんですよね。
正解を覚えれば、良いわけですから。
そして、昔は、その正解を覚えるという、「記憶する」っていうところが「=学力」みたいなところがあったのが。
今はですね、検索すりゃ一発で何でも、答え出てくるわけですよね。
なので、「試験会場には、検索ができるようなものを持ってくるな」って話になるんですけれども。
なにしろ、検索して答えを導かれちゃうと、これ試験として成り立たないですからね。
そういったもの無しで、脳の中のメモリにちゃんと組み込んできて、それをそーっと試験会場まで持っていくということをやるのが、日本の試験の一つの考え方と言うか、やり方なので。
「検索すりゃ、わかる」っていうのは、仕組みとしてはそうかもしれないけれども、教育機関としては、それはなかなか受け入れてもらえないということになるんですね。
でもまあ、実生活の中では、検索すりゃ正解わかるわけで。
”どうなるか?”って言うと、考える能力っていうのが奪われた状態で、検索に依存するっていうことになりかねないんですよね。
ちなみに、これはですね、「他の国だったら、じゃあ皆、日本より頭が良いのか?」と言うと、他の国は他の国で、別の教育的な問題っていうのをいろいろ抱えてたりするんですけども。
ちょっとその議論をし始めると、キリがなくなっちゃいますので。
まずは、ちょっと日本だけにフォーカスをして、話をしたいと思いますけれども。
まあとにかくですね、「ある正解があり、それ以外は間違い」ってなりやすいということを理解した上で。
世の中にはいろんな価値観があって、正解は人の数ぶんだけあるんだと。
それぞれに正義があって、時としてそれは、自分とは違う・自分とは異なる考えに、基づいている場合もあるということなんですね。
だけど、その時に、お互いに矢印を向け合ってやると、どうしても対立構図になって、快適に暮らせなくなってくるんですね。
繰り返しになりますけれども、誰とでも調子を合わせる・誰の話にも全部合わせていくってなると。
これ、自分が無い状態になるので、「これはこれで、ちょっとちゃうぞ」と。
楽かもしれないけれども、全然自分の人生、生きてない状態になるので。
ふと気づいた時に、これ取り返しのつかない状態と言うかですね。
「あれ、私、何の為に生きてるんだっけ?」ってことになりかねないので。
ちょっとこれも、オススメできないかなという気がするんですよね。
タイトルにもしてますけれども、対立するメカニズムというのは、これはお互いが意見が違い、「自分は正しい、相手が間違っている」ということで、その間違いに対して指摘をしていくってなるとこれ、対立ということになるんですよね。
これは、考えじゃなくて、ただの情報だったら良いんですよ。
例えば、
始発って、朝6時だよね?
あ、違うよ。5時45分だよ。
これは間違い指摘してるんですけど、これ間違いと言うか、記憶違いですよね。
朝6時の始発だと思っていたのが、5時45分でした。
これは、情報が違ったということなので、”あ、そうなんですね”でおしまいなんですよね。
これが、違うアプローチだと、”始発というのは、朝6時でなければならない”ってなると、これ意見ですから。
これに対して、”いやいや、始発は5時45分であるべきだ”という風になってくると、これは対立になるんですよね。
え、6時以前に始発を出すなんて、許せない!
いやいや、始発っていうのは5時台に出て、ナンボでしょ?
とかってなると、これはずっと対立をするということなんですね。
そして、事実としては、「5時50分の始発である」と。
まずその事実があった上で、6時派と5時45分派がいたとしたら、これ意見対立させるの、あんまり意味ないですよね。
私は、6時の方が良い。
私は、5時45分の方が良い。
だけど、事実は5時50分だから、まあこれをお互い受け入れましょうっていう風になると、別にそれは、それぞれの正しいと思うことというのがあり。
だけど、事実はこれだから、それを受け入れるってなると、誰も傷つかないし、何も起きないですよね。
どういう考えを持っていたとしても、事実はこれだから、もうこれで良いじゃんという風になるわけです。
新生活が始まって、新しい環境になって、新しい人間関係がどんどん生まれているという、そういう状況の人も多いと思うんですけれども。
その時に、「あ、この人、私と考え方違うな」って思った瞬間に、ぜひ今日の話を思い出してもらえると嬉しいなと思います。
「あ、この人は、自分と考えが違うな」って思ったら、それを一回受け入れると。
全然これ、賛同する必要ないですからね。
”あなたの言うこと、仰る通り、ほんとにそれは正しい”とか言う必要、全然ないんですけれども。
「あ、違うな。だけどまあ、それはそれだよな」っていう風に思って、「だけど、私はこう思う」ということを大事にする。
このバランスが取れていると、とりあえず、平和に生きられるんじゃないかと。
自戒も込めて、話をしてみました。
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