人に好かれるセリフ
「別にいいんだけど」⇒「納得できてません」
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このページはVoicy「澤円の深夜の福音ラジオ」1493回を、文字起こし・編集したものです。
【昨日Twitterで絡まれまして】
今日は、「他人に失望される」ということをテーマに、お話をしようかな~と思うんですけれども。
というのもですね、昨日Twitterのやりとり、見てた方もいるかもしれないんですが、新R25のワイドショーっていうのがあって。
僕、そちらの公式コメンテーターなんですけど。
その中のお題で、なんか日経新聞に、ある漫画のキャラクターが広告で出て。
それが、性的なものを想起させるっていうので、なんちゃらかんちゃらって揉め事が起きているっていう、そういう話だったんですね。
僕、その広告、見ていなくって。
且つ、「なんとかのたわわ」っていうマンガなのかな?
それも見たことがなくて、どういうものか全然わかんなかったんですね。
そして、日経での広告を結局、目にすることもなく。
そして、”「見たくないものを見せるな」っていう、そういう権利があるんだ”っていうことを、声高に叫んでいる人がいますよ~っていう、そういう話だったんですね。
別に僕は、そのことについては全然何とも思わないですし、そういう権利があるっていう風に声をあげるのも、大いに結構ですし。
あるいはですね、その漫画の広告っていうのを選んだという人には、何らかの思惑はあったんでしょうし。
そして別にですね、「漫画そのものには、別に罪ないんじゃないの?」と、僕は思うし。
ということで、”見たことないし、よくわかんないから、「平和だな」っていう感想以上のものは持てません”っていう風にコメントしたんですね。
そしたらですね、別に炎上したわけじゃないんですけれども。
僕に対してですね、複数の視点で、お叱りの言葉が届いたんですね。
まず、「これは、性的なものというのを助長させるようなコメントだ」っていう人もいれば。
逆にですね、「表現の自由というのが奪われる、そういうリスクがあるのに、こういうコメントをするのは、けしからん」というような形でですね。
僕にまあ、矢印向けて、攻撃する人がいるわけですね。
まあ、攻撃ってほどでもないんですけれども。
何らか、僕に意見をしてくる人がいるんですけど、”知らんもんは知らん”って話なんですね。
「元々、僕その広告、見てませんよ?」とか、「その記事、見てませんよ?」っていうことを書いてないのも、落ち度なのかもしれないですけど。
見ず知らずの人に対してですね。
それも、書いてないことを拡大解釈して攻撃してくるっていう、そういうものを受けなきゃいけない謂れもないので、「なんだかな~」って、思ってたんですね。
そして、そうやって僕に意見してくる人の一人がですね、”ガッカリしました”っていうコメントを書いてたんですね。
なんか僕が、「たぶん、そういう人じゃない」と思ってたんでしょうね。
なので、”ガッカリした”っていう風に書かれていて。
「これ、面白いな」と思ったんですね。
「ほぅ~、ガッカリしたんだ~」「たぶん、この人は僕に対して、何か幻想かなんか抱いてたのかな~」って思ったんですよね。
もしくは、「きっと、自分と同じ考えを持っているに違いない」という風に思ったのか。
あるいは、「きっと、この件に関しては、自分の思うようなコメントをしてくれるに違いない」って期待したのか。
いずれにせよ、「”ガッカリした”ということは、何らか僕に期待していたんだろうな」と思うんですよね。
これは、実に興味深いポイントがありましてですね。
「人は、見ず知らずの人からも期待されることがある」ってことなんですね。
僕なんかは別に、そんなに有名人でもないですし。
Twitterのフォロワーも、41,000人ちょい。
Voicyのフォロワーが、55,800人ぐらいですかね。
もちろんですね、これだけの人にフォローしてもらえているというのは、めちゃくちゃ有り難いことですし、すごく光栄なことではあるんですけれども。
ただ、誰でも知っているタレントさんとかでは、ないし。
ましてや、ものすごい発言に影響力があるとは、自分では思ってないんですね。
ものすごく小さいわけじゃないかもしれないですけれども、僕の発言によって何か、ものすごく事が起きるかって言うと、別にそういうわけでもないと。
だからといって、「何言っても良い」とかですね。
「発言に責任取るつもりは、ありません」とか。
もちろん、そんなことを言う気は、全然なくってですね。
常に僕は、自分の発信する情報っていうのに、かなり注意を払っていますし。
そして、常に自分の立場は、明確にして。
そして、誰かと対立軸になるようなものを、好んでやるタイプでもないんですよね。
人はそれぞれ、自分の主義に従って生きれば良いし。
「自分の人生を、生きれば良いんじゃない?」ぐらいにしか思ってないんですけど、そうは思わない人っていうのがいて。
そして、ある意味ですね、勝手に僕に期待をかけて。
そして、勝手にガッカリしちゃう人もいるわけですよね。
「うん、これは面白いメカニズムである」と思ったんですよね。
そして、そういう人は、僕に対して何かの期待をしているということを、別に今までで表明したわけじゃないんですよね。
もしかしたら、本を買ってくださっていたりとか、フォローしてくださっていたりとか。
あるいは、こうやってVoicyを聴いてくださったりとかして。
僕をある意味、支えてくださっている。
これは、ほんとに感謝なんですね。
ただですね、いきなり全く面識もないのに、”ガッカリしました”って言う風に、コッチに矢印を向けられても、対応のしようがないんですよね。
「あ、すいませんね。ご自由に、ガッカリしてください」「そして、あなたが何を期待していたのかはわからないんですけれども、それを伝えてもらえないことには答えようがないし」「もっと言えば、自分の主義・主張、あるいは信条に反するようなものであれば、それには答える可能性はゼロですよ」ということになるかな~って思うんですね。
僕レベルでこうなので、芸能人とかですね。
有名なアスリートとかは、「ほんとに、大変だよな~」って思うんですよね。
そして、時々目にする・耳にする事例というのがですね。
勝手にガッカリしておいて、相手に謝らせようという、そういう圧力をかける人とかも、いたりしてですね。
「それ、違うんじゃないの?」って思うんですね。
これが顕著に現れるのが、オリンピックの時なんですよね。
オリンピックの時に、選手に対して”謝れ!”っていう風に公言する人もいますからね。
結果が出なかったアスリートに対して、”これは、国民に対して謝った方が良い”とか言う人、いるわけですね。
「な~んかこれ、ちょっと狂ってるな」って、僕は思っちゃうんですけど。
そして、そういう人の言い分としては、”自分は応援してて、それを裏切ったんだから、謝るべきである”とかですね。
あるいは、”きっと、税金が使われているに違いないから、国民全体に謝るべきである”とかっていう風に言う人も、中には、いるわけですね。
「なんか、それも違うんじゃないの?」と。
だって、税金によって何かのサービスを受けているとしたら、国民全員そうですから。
そうなったら、何をするにしても、ずっと謝り続けなきゃいけないわけですよね?
ということで、これは、言い掛かり以上の何物でもないような気がするんですよね。
そして、特にオリンピックの選手なんていうのは、気の毒でですね。
普段、全く競技場に足も運ばないような人達っていうのが、オリンピックになると、ついついその競技というのを見てしまって、俄評論家になって。
結果が出ないと、なぜか無責任に叩くという人も、中には、いるんですよね。
これ、「やってる方、堪んないだろうな~」と思うんですけれども。
何か知んないですけど、すごく責任をそれに感じてしまってですね。
”国民の皆さんの期待を裏切ってしまって、申し訳ありません”とか、記者会見で謝る人とかいて。
「いやいやいや、謝んないで良いでしょ?」って思うんですよね。
だって、自分が選んでやっている競技で。
そして、結果が出なかったって、一番悔しいのは本人ですから。
「なんで、国民の皆さんに謝っちゃったりするのかな~」っていうのが、よくわからないんですよね。
もちろんですね、関係者の人達というのは直接的に関わっているので。
もちろん、失望は大きいでしょうね。
そうなると、その選手というのは、「ガッカリさせて、ごめんなさい」っていう気持ちになるのは、ナチュラルだと思うんですけれども。
これもですね、サポートしてる側は…
本当の意味でサポートをするんだったら、負けた時・結果が出なかった時なんじゃないかな~って思うんですよね。
なぜかと言うと、なんか競技で結果が出なかったっていうのは、たいていのアスリートは悔しいはずなんですね。
もちろん、淡々としている人もいるし、そういった結果を受け止める人もいますけれども。
ただですね、喜んじゃいないですよね?
そして、本気で応援する気がある人であれば、負けた後・何かうまくいかなかった時こそ、しっかりとサポートをして。
場合によっては、「次のチャンスを手に入れるために、サポートするよ」かもしれないし。
あるいは、「今回で、もう終わりにしても良いんだからね」ということで慰めても良いし。
一番、本人が喜ぶ形であるっていうのが、ポイントですけどね。
適当に言って、本人の意思と全然ズレてると、これ逆効果ですから。
それも含めて応援するのが、本当のサポーターなんじゃないかなって、僕は思うんですよね。
もちろんね、何となく応援してて。
その人が結果出ないと、自分も悔しい思いをしたりとかするかもしれないし、ガッカリもするかもしれないけど。
「その感情をその人にぶつけても、別に何も良いこと起きないんじゃないかな」と思うんですよね。
昨日のTwitterに関しては、僕が意見を述べて、それに対して賛同できない人が、僕に矢印を向けたっていう状態だったんで、事態はちょっと違いますけどね。
質が、違うんですけれども。
ただ、「”ガッカリしました”と言われても、僕は別に、あなたを喜ばせる為に意見を言ったんじゃないんですよ」っていうのが、正直なところなんですね。
ただ、意見が合わないということに関して言うと、「これは、仕方がないですよね」ということだし。
その人が違う意見を持っているということについては、全然これは…
「そうだよね、そういう考え方アリだよね、良いんじゃないですか」という、それ以上のこともないわけですね。
ということで、ガッカリさせたとしたら、その人には気の毒ですけれども。
僕は、僕の人生を生きるので。
ぜひ、そういった方もですね、自分の人生を生きると良いかな~と思います。
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